LOGIN望と別れてから、もうすぐ一か月。
あれから一度もルーチェには行けていなかった。
──あの日のことを思い出してしまう。
あんなふうに泣いてしまった場所に、平気な顔をして座れるわけがない。
職場から自宅までの帰り道にあって便利だったのに……残念。
そう思いながらも、わたしは新しく行けるお店を探そうとしていた。
気になっていたのは、二年前にオープンしたカフェ。
ケーキが美味しいと評判で、当時は行列が絶えなかったところだ。
食事のメニューも豊富で、ずっと行きたいと思っていたけれど……
あの行列に並ぶ勇気がなくて、結局一度も行けなかったのだ。
でも二年経った今なら、少しは落ち着いているかもしれない。
そう思い切って行ってみることにした。
店内はやっぱり混んでいたけれど、少し待っただけで席に通してもらえた。
「よかった……」と胸をなでおろしながら席につき、お冷やを受け取ってメニューを開く。
ページをめくりながら、どれにしようかと迷っていると――
「あの……大変申し訳ございません!」
突然、店員さんが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「こちらのお席、実はご予約のお客様の席でして……間違ってご案内してしまいました」
「えっ……」
わたしは思わず声を漏らす。
「ですが、予約のお客様から相席のご了承をいただいております。もしよろしければ、こちらに座っていただけないでしょうか」
どうやら手違いらしい。
断ろうかとも一瞬思ったけれど、あまりに申し訳なさそうな顔をされると、どうしても首を横には振れなかった。
「……はい、大丈夫です」
そう答えると、店員さんが安堵したように頭を下げ、奥のテーブルを指差した。
その視線の先を追った瞬間――わたしは目を見開いた。
そこにいたのは、見覚えのある男性だった。
視線がぶつかった瞬間、わたしは思わず固まってしまった。
相手の男性も、同じように驚いた顔をしている。
──あのときの人だ。
ルーチェで女性にふられていた、あの男性。
そして、泣きじゃくるわたしにハンカチを差し出してくれた人。
きっと彼も気づいたのだろう。
そんな気がした。
気まずそうに、それでも礼儀正しく男性は目の前に座った。
「相席を許していただいて……ありがとうございます」
「い、いえ! あなたのせいではないですから」
わたしは慌てて手を振るように答えた。
一瞬の沈黙のあと、わたしは意を決してカバンに手を伸ばした。
「それより……先日はありがとうございました」
取り出したのは、きちんと洗ってアイロンをかけておいたハンカチ。
返せる保証なんてなかったけれど、どこかで偶然会ったら……と、念のために持ち歩いていたものだった。
まさか本当にこんな形で再会するなんて。
男性はハンカチを見て、少し驚いたように目を細めた。
「……お持ちだったんですね」
それから、ふっと柔らかく笑みを浮かべて。
「ありがとうございます」
彼の手にハンカチが戻っていくのを見届けながら、わたしは胸の奥がほんのり熱くなるのを感じていた。
――あのときの人と、こんなふうに再会するなんて。
店員さんがやってきて、わたしと彼はそれぞれ注文を済ませた。
メニューを閉じたあと、気まずい沈黙を埋めるように、私は口を開いてしまう。
「……こういうカフェには、よく来られるんですか?」
自分でも、ちょっと場違いな質問だと思った。
落ち着いた雰囲気の彼と、このおしゃれなカフェが結びつかなかったからだ。
彼は少しだけ考えるようにしてから、静かに答えた。
「実は……ここ、別れた彼女と来る予定だったんです」
一瞬、胸の奥がちくりと痛む。
「……ごめんなさい。思い出させてしまって」
けれど彼は、首を横に振って言った。
「あなたが謝ることじゃないですよ」
そして、少し柔らかく微笑む。
「それに……ここは新しい出会い職場が近いから、気になってたんです。できれば行きつけにしたいなと思って」
「新しい……出会い職場?」
わたしは思わず聞き返した。
「はい。実は、四月から桜南高校で働くんです」
「……えっ」
思考が一瞬止まった。
――桜南高校。わたしが六年間勤めている学校だ。
「どうかしました?」
彼が不思議そうに首を傾げる。
そのとき、タイミングよく注文した料理が運ばれてきた。
わたしは深呼吸をひとつしてから、彼を見つめて言った。
「……わたし、桜南高校で働いているんです」
まさか、四月から同じ職場で働くことになるなんて――。
驚きすぎて、わたしは彼としばらく見つめ合ったまま固まってしまった。
先に口を開いたのは彼の方だった。
「……四月から桜南高校でお世話になる予定の、滝川來といいます」
――滝川來。
名前を聞いた瞬間、胸の奥にしっかり刻まれるのを感じた。
わたしも慌てて背筋を伸ばし、微笑みながら言う。
「私は横井奈那子です。桜南高校で養護教諭をしています」
こうして、初めてわたしたちはお互いの名前を知った。
食事が運ばれ、自然と会話が始まった。
滝川さんは数学の教員であること。
知り合いの紹介で桜南高校を紹介され、転勤を決めたこと。
意外にも話題は途切れることなく、わたしも学校の雰囲気や生徒のことを少しずつ話した。
笑ったり、相槌を打ったりするうちに、気まずさよりも心地よさが勝っている自分に気づく。
食事を終える頃、滝川さんがふっと笑って言った。
「これも何かの縁ですし……よかったら、LINEを交換しませんか?」
一瞬、迷いそうになったけれど――わたしは自然に笑顔を返していた。
「はい、ぜひ」
スマホを取り出し、画面にお互いの名前が並んだ瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
翌日になると、昨日ひねった足はすっかり良くなっていた。昨日は少し痛かったけれど、たいしたこともなく、湿布を貼って寝たらもう痛みも感じないくらいだった。少し安心しながら出勤したこの日、保健室は朝からいつもよりもにぎやかだった。放課後テストが近いせいか、部活が休みの生徒が多く、その分、保健室に顔を出す子が増えていた。お決まりのメンバー――早苗が最初にやって来て、少し遅れて長野と常盤も姿を見せた。3人とも、どうやら話すために来たという感じがする。「先生〜、やっほ〜!来ちゃった!今誰もいない?」「ええ、いないけど……もうすぐテストでしょ?テスト勉強はしなくていいの?」わたしが笑いながらそう言うと、長野がすぐさま大げさに肩を落とした。「え〜、奈那子ちゃんまでテストの話しないでよ〜!」「もしあれなら、ここで勉強してもいいわよ。 今は保健室使ってる子いないし。体調不良の子が来るまでだったらね」そう言っても、3人の顔には「勉強する気ゼロです」と書いてあった。代わりになぜか質問攻めにあってしまう。「奈那子ちゃんって、何の教科得意だった?」とか、「数学教えてよ〜!」とか。「数学なら、滝川先生に聞けばいいじゃない」そう言うと、常盤がすかさず答える。「滝川っち、きびしーもん!」思わず吹き出してしまう。來のことを「滝川っち」と呼ぶあたり、あっという間に來がクラスの子と打ち解けたのが分かる。彼らの中では、先生と生徒というより、ちょっと年上の兄貴分みたいな存在なのかもしれない。そんな中、早苗が少し真剣な表情で口を開いた。「そういえば昨日、奈那子先生、階段から落ちたって聞いたけど……大丈夫だったの?」「ああ、あれね。数段だけだったから大丈夫よ。心配してくれてありがとう」「そのとき、滝川っちが助けに来てくれたって聞いたけど、ホント?」その言葉に一瞬、息が止まった。どうやら昨日の出来
ここ数日、どうにも落ち着かない。頭の中に、あの望の投稿が何度も浮かんでしまう。『元カノ、別れて半年も経ってないのに別の男と結婚したって。あんな男好きと別れられてほんとよかった』――あの言葉を見るたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。もう関係ないはずなのに。忘れたと思っていたのに。そのせいか、最近よくものを落とすし、人に話しかけられても気づかないことが増えた。來にも気づかれているのが分かる。何かやらかしたあと、ふと顔を上げると、必ず彼と目が合ってしまう。でも、來は何も言わなかった。ただ、静かに見守るように視線をくれるだけ。それが逆に、今はありがたかった。***その日も、授業中で保健室に来た生徒がいなかったため、わたしは巡回しつつ環境を確認していった。いつものように、トイレの除菌や廊下の換気をしていく。授業が終わるチャイムが鳴って、「そろそろ戻らなきゃ」と思って階段を下りた、その瞬間だった。ツルッ。「あっ――」体がふわっと浮いて、すぐにドンと落ちた。下から数段だったから大事にはならなかったけど、足首に鈍い痛みが走る。「先生、大丈夫ですか!?」近くを通りかかった生徒が駆け寄ってきた。わたしは慌てて笑顔を作った。「だ、大丈夫。ごめんね、驚かせちゃったね」本当は少し痛かった。でも、生徒の前で情けない顔はしたくなかった。でも、そのとき、聞き慣れた声がした。「横井先生、大丈夫ですか?」顔を上げると、來が立っていた。心配そうな顔でわたしを見下ろしている。「足、ひねりました?肩、貸しましょうか?」「だ、大丈夫です。平気ですから」そう答えると、周りの生徒たちがわっと笑いだした。「滝川っち、フラれたー!」「先生、男前に助けに来たのに~!」その無邪気な
洗い物を終えたころ、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。画面を見ると、そこには「母」の文字。久しぶりの母からの着信だった。「……もしもし?お母さん?」『あら、奈那子。久しぶりね。元気にしてる?』2か月ぶりの声に、少し胸が温かくなる。でも次の瞬間には、この優しい声がどこか探るようなものに変わった。『結婚生活はどう?ちゃんとやれてるの?』これは、予想していた質問だった。「うん、大丈夫だよ。ちゃんとやってる」そう答えると、母のため息が小さく聞こえてくる。『……ほんとに?奈那子、來くんに迷惑かけてない?』迷惑なんて、かけてない……たぶん。「迷惑かけてない」と答えるとき、少し戸惑ってしまった。『それにね、ずっと気になってたんだけど……。來くんのご両親には、もう挨拶に行ったの?』以前に実家に行ったときには、「來くんのご両親に挨拶に行くときはきちんとしなさいね」と言われた程度だった。だから、こんな質問が突然来るとは思わず、わたしは言葉に詰まり、少し間を置いてから答えた。「……來のご両親、ちょっと忙しくて。なかなか予定が合わないの」『そう……。でもね、奈那子たち結婚式まだ挙げてないでしょう?向こうのご両親にお母さんたちもお会いしていないから、お父さんも心配してるのよ』母の声は責めているわけではなかった。ただ、娘を心配している親の声だった。だからこそ、胸が痛む。「……うん、わかってる。ちゃんと話してみるね」『そう。できれば來くんを連れてまた帰ってきなさい。お父さんも、奈那子の顔を見たがってるから』その言葉に、思わず小さくうなずいた。「來、部活の顧問もしてるから土日も忙しいことが多いの……一
ゴールデンウィークに入ると、学校は一週間近くお休みになった。けれど、部活動は別。來も数日、部活の顧問として出勤しなければいけなかった。「久しぶりに、涼子とヒロコ……高校のときの友達と会いたいねって話になったんだけど」そう言うと、來はすぐに笑ってくれた。「いいじゃん。行っておいで。楽しんで」あっさりと背中を押してくれるその気楽さが、やさしくてくすぐったい。その日の朝、わたしは休みだったけれど、いつもと変わらずキッチンに立っていた。來のお弁当を準備する手つきも、だいぶ自然になった気がする。「……お弁当、できたよ」來に手渡すと、彼は少し驚いたように目を見開いて、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。「休みなのに、ありがとう」そしていつものように、わたしの頭に手が伸びる。ポン、と優しく触れるその感触に、胸がふわっと温かくなる。このしぐさ、これで何度目だろう。気づけば、当たり前のように撫でてくる。まるで、本当の恋人みたい……いや、もう夫婦なのだけれど。それでも、くすぐったい。「いってきます」「いってらっしゃい」笑顔で手を振る來を見ながら、思わず頬が緩む。ドアが閉まったあとも、しばらく胸の奥に残るぬくもりが、静かに響いていた。しばらくして、わたしは出かける支度を始めた。お気に入りのワンピースを着て、少しだけ髪も丁寧に巻いた。涼子とヒロコに久しぶりに会うこの日を、この数日ずっと待っていた。胸が弾むような、少し緊張するような、不思議な気持ちで家を出た。***約束のお店は、ヒロコが予約してくれた韓国料理屋だった。「前から行きたかったんだよね!」とメッセージをくれたときの勢いのまま、店選びはあっという間に決まった。結婚してから三人で会うのは、今日が初めて。久しぶりの再会
家に帰ると、わたしは洗濯物を畳んで掃除をした後、早速夕飯の準備に取りかかった。チャーハンの材料を冷蔵庫から取り出していく。今日は來が遅くまで仕事を頑張ってくる日。気合を入れてリクエストのあったチャーハンを作ろう。そう思って、気持ちを切り替えようとしていた矢先だった。カチャ。玄関のドアが開く音がした。え?と手が止まる。もしかして泥棒?と体がこわばった。時計は18時少し過ぎをさしている。だって、來が帰るには早すぎるもの。でも、もしかしたら家庭訪問、中止になったのかもしれない。そう思いながら玄関を覗くと──知らない女性が、玄関の段差に靴を揃えて、家の中に入ろうとしていた。「……え?」その女性と、目が合った。相手も、わたしを見て固まっている。「ど、どちら様ですか?」自分の声が、思ったより震えていた。女性は少し驚いたように瞬きをしてから、丁寧に頭を下げた。「藤原美緒です」──美緒。どこかで聞いた名前だった。それに、どこかで会っているような気もしてきた。その瞬間、彼女が続けた言葉に心臓が跳ねた。「來くんと結婚した方ですよね。はじめまして。來くんのお母さんに頼まれて、おかずを届けに来ました」……思い出した。あの場所――行きつけだった「café&grill LUCE」で見かけた女性だ。來の元カノであり、望と浮気していた彼女――きゅっと息が詰まったように感じた。わたしは、彼女に会う準備なんて全くできていないのに。こんな突然顔を合わせることになるなんて――「ありがとうございます……」そう答えて、紙袋を受け取る手が少し震えた。あのときは、ほとんど顔を見ていなかったから、あまり印象も覚えていな
その朝は、いつもよりゆっくりとした時間が流れていた。テーブルには焼いた鮭と、お味噌汁と、炊き立てのご飯といった、いつもの簡単な食事が並んでいる。「今日は家庭訪問してから帰るから」味噌汁の湯気の向こうで、來が穏やかに言った。その言葉に、胸がすっと強張る。酒井真央は、まだ一度も学校に来ていない。毎日、母親からの欠席の連絡が続いていた。また昼休みに心配した表情の早苗がやってくるのが、頭に浮かぶ。「……そっか。今日だったよね、家庭訪問。話ができるといいね、酒井さんと」それしか言えなかった。もしかしたら今日の家庭訪問でも、何も変わらないかもしれない可能性があったから。気持ちを切り替えようと、わたしは笑顔を作った。「ねえ、今日の夜ご飯、何がいい?」來は箸を止め、少し考えるふりをしてから、ぽつりとつぶやいた。「豚汁……は、この前作ってもらったしな……」小声でぶつぶつ言う姿が、なんだか子どもみたいだと思った。そんな姿を、可愛い、なんて思ってしまう自分がいる。「あっ、チャーハン久しぶりに食べたいかも」來は急に、思い出したみたいに顔を上げて言った。でも、すぐに真面目な表情に戻る。「帰って疲れてたら無理しなくていいから。連絡して。お弁当でも買って帰るよ」その優しさが、あったかく胸に沁みる。「大丈夫だよ。料理好きだから。チャーハンくらいなら全然苦じゃないもの」本当の気持ちだった。誰かのために作る料理は、ひとりのときよりずっと嬉しい。食べ終わりのタイミングで、來が席を立つ。いつも通りだと思った瞬間――そっと、頭に手が乗った。一瞬だけ、驚いて息が止まる。撫でられたところが、じんわり熱くなる。「ありがとう」何気ない声なのに、心臓がどくんと跳ねた







